日本史のお勉強14「元寇」
日本史の教科書には、元寇についていろいろと記載されています。
もっと詳しく知りたくなったので、いろいろと調べてみました。
まず、元寇という言葉は江戸時代以降のもので、当時は蒙古来襲とか蒙古合戦とか呼ばれていたということです。また、文永の役と弘安の役も、文永合戦と弘安合戦と呼ばれていたのですね。
さて、その元寇ですが、学生時代に習ったことと現代の解釈はかなり違っていることがわかりました。
学生時代は、主にふたつのポイントを習った気がします。
ひとつは、元の大軍が襲来してきて、人数的にも戦術的にも兵器的にも、日本は全く歯が立たなかったということです。
もうひとつは、元が2度来襲してきて日本を征服しそうになったが、たまたま2度とも神風(台風)が吹いて、日本が助かったということです。
近年の研究では、いずれも事実ではない可能性が出てきました。
まず、第1回目の来襲である文永の役。
そもそも元は威力偵察のつもりで日本に来た可能性があるということです。つまり、本気ではなかったかもしれないということです。
で、戦ってみると日本は大善戦して、元が大きな損害を出したということです。苦戦した元は、こりゃまずいぞということで、神風とは関係なく撤退したのです。
そして、元の軍隊が撤退している帰り道に大嵐にあって被害が大きくなった、というのが現代の解釈として有力そうです。
で、第2回目の来襲である弘安の役。
これは、文永の役の数倍の兵力(約14万人)で攻めてきたので、元が本気になって攻めてきた可能性があります。が、どうも元は、日本を占領して移民するつもりだったらしく、約14万人のうち、かなりの人数は移民を前提とした軍人(つまり、武器を持った農民)で、専門の軍人はあまり多くなかった可能性があります。
そんで、元の軍隊が日本にたどり着いて小競り合いをしている時、今度こそ神風が吹いて、元に大打撃を与えたのです。その混乱に乗じて日本が元を攻撃して、元をボコボコにしたというのです。
その後、元は、日本にチョッカイを出すのはヤバイぞという認識ができ、日本を避けるようになったということです。
日本って、意外と強かったんですね。
まあ、戦争するのにお金がかかりすぎて、それが鎌倉幕府が滅亡する遠因となったという意味では、元は日本を滅ぼしたと言えないこともありませんが・・・・。
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