2013.02.20

英語のお勉強

私の会社私の部門では、最近なぜかトップ陣が英語を奨励しています。
自分たちは何の努力もせず、「俺たちはもうムリだからお前らががんばれ」と公然と言い切るトップ陣の態度にはムカつきますが、英語ができたほうがいいのは当たり前です。

そんな中で、会社の後輩が英語の勉強を始め、ちょっとした英語の本を紹介してくれました。
それが、「どんどん話すための瞬間英作文トレーニング」というCD付の本です。
この本、中学生レベルの単語力文章力でひたすら押しまくる内容です。文法とかそういったことよりも、反射的に英語が出てくるような練習を重視した本のようです。ちょっとCDを聞かせてもらったら、私にちょうど良いレベルでした。

ということで、その本をゲットしました。


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以前2回ほど TOEIC を受けたことがあるのですが、私の実力はちょうど500点くらいです。普段英語になじみがなく、かつ全く練習しないで試験を受けた割には、まあそこそこの点数かな、といったレベルだと思います。

が、私は全く英語が話せません。テストを受けるとそこそこの点数をとれるのに、実際の会話は全くダメなのです。瞬間的に言葉が出てきません。失敗したくなくって、どうしても頭で考えてしまうのです。
そんな私が何も考えずに英語に慣れるためには、この本は最適かもしれません。

今週末から、時間を作ってお勉強してみようと思います。
三日坊主にならなければいいのですが。
というか、1日もつかどうか、心配です‥‥。

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2012.05.24

日本史のお勉強16「応仁の乱」

応仁の乱は、不思議な乱です。

山名宗全と細川勝元の2大勢力の戦いなのですが、11年間延々と戦いが続いた末、どちらの勝ちということもなくなんとなく戦いは終了。
2大勢力とも、戦いに疲弊して没落。だからといって、交代する勢力もナシ。
結局この戦いは、日本を壊すだけで再構築しませんでした。
こんな戦いは、日本史上ほとんどないんじゃないかな。

結局、地方の大名が力をつけてしまい、多くの大名に天下を統一するチャンスが生まれました。要するに、戦国時代の始まりです。

さて、日本史に興味のある人にとって、戦国時代はとても興味深い時代です。
が、あらためて日本史の本を読んでみると、戦国時代の記載が思ったよりはるかに少ないのです。応仁の乱後、戦国時代の勢力争いをハショッて、いきなり織田信長が天下を統一する流れになっているのです。

テレビや小説などでは、戦国時代を扱ったものが多いですよね。興味深いエピソードが山のようにあるからなのでしょう。
が、それらのエピソードは、日本の歴史という意味では大きな意味を持っていなかったということなのでしょうか・・・・。

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2012.05.17

日本史のお勉強15「室町時代」

私は、日本史が好きです(詳しいというわけではないです)。
が、室町時代は、なんかあまり印象に残っていません。

足利尊氏が室町幕府を作って、義満が金閣寺をつくって、義政が銀閣寺を作って・・・・みたいなことしか記憶にありません。

が、日本史の教科書を後から読んでみると、ちょっとおもしろい記載がありました。

室町幕府の第5代将軍足利義持が重病になった時、まわりの人達が跡継ぎを指名してくれとお願いしたのに、どういうつもりか跡継ぎの指名を拒否したらしいのです。
結局、第6代将軍は、くじびきで決まったというのです。くじびきに当たった(はずれた?)足利義教は、何度か辞退したものの、やむなく将軍を引き受けることになったのです。

なんか、パッとしないエピソードですよねえ・・・・。

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2012.05.15

日本史のお勉強14「元寇」

日本史の教科書には、元寇についていろいろと記載されています。
もっと詳しく知りたくなったので、いろいろと調べてみました。

まず、元寇という言葉は江戸時代以降のもので、当時は蒙古来襲とか蒙古合戦とか呼ばれていたということです。また、文永の役と弘安の役も、文永合戦と弘安合戦と呼ばれていたのですね。

さて、その元寇ですが、学生時代に習ったことと現代の解釈はかなり違っていることがわかりました。

学生時代は、主にふたつのポイントを習った気がします。
ひとつは、元の大軍が襲来してきて、人数的にも戦術的にも兵器的にも、日本は全く歯が立たなかったということです。
もうひとつは、元が2度来襲してきて日本を征服しそうになったが、たまたま2度とも神風(台風)が吹いて、日本が助かったということです。
近年の研究では、いずれも事実ではない可能性が出てきました。

まず、第1回目の来襲である文永の役。
そもそも元は威力偵察のつもりで日本に来た可能性があるということです。つまり、本気ではなかったかもしれないということです。
で、戦ってみると日本は大善戦して、元が大きな損害を出したということです。苦戦した元は、こりゃまずいぞということで、神風とは関係なく撤退したのです。
そして、元の軍隊が撤退している帰り道に大嵐にあって被害が大きくなった、というのが現代の解釈として有力そうです。

で、第2回目の来襲である弘安の役。
これは、文永の役の数倍の兵力(約14万人)で攻めてきたので、元が本気になって攻めてきた可能性があります。が、どうも元は、日本を占領して移民するつもりだったらしく、約14万人のうち、かなりの人数は移民を前提とした軍人(つまり、武器を持った農民)で、専門の軍人はあまり多くなかった可能性があります。
そんで、元の軍隊が日本にたどり着いて小競り合いをしている時、今度こそ神風が吹いて、元に大打撃を与えたのです。その混乱に乗じて日本が元を攻撃して、元をボコボコにしたというのです。

その後、元は、日本にチョッカイを出すのはヤバイぞという認識ができ、日本を避けるようになったということです。

日本って、意外と強かったんですね。

まあ、戦争するのにお金がかかりすぎて、それが鎌倉幕府が滅亡する遠因となったという意味では、元は日本を滅ぼしたと言えないこともありませんが・・・・。


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2012.05.06

日本史のお勉強13「鎌倉時代の生活」

若かった頃はちっとも興味がなかったので憶えていないのですが、あらためて日本史の教科書を読んでみると、鎌倉時代の生活についての記載が随所に見られ、おもしろいです。

この頃は、女性の地位は比較的しっかりしていたようです。
はっきりしたことはわからないのですが、男尊女卑的な考え方が定着するのは、もっとずーっとあとのようです。意外といえば、意外です。

この時代に、裁判がしっかりと行われていたのも意外です。
年貢収入などのもめごとが幕府に訴えられ、幕府の裁判所で審理されていたようなのです。が、長い年月と多額の裁判費用が必要で、大変だったようです。
現代とあまりかわりませんね。

牛や馬を使って畑を耕すようになってから生産性が向上したということも、しっかり書かれていました。
畑を深く耕すことで、土中の根粒細菌が空気中の窒素を取り込み、地力が回復するのだそうです。私は耕すことの意味すらよくわかっていなかったので、この記載は大変勉強になりました。

また、度重なる飢饉や戦乱のために農民は大変苦しいことになったのですが、荘園の領主や地頭は農民に種や食料を無料で与えたりしてお互いにがんばっていた、という記載もありました。
この頃は、地主と農民はいい関係にあったようですね。

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2012.05.04

日本史のお勉強12「源頼朝と足利尊氏」

最近の日本史の教科書の記載で、一番衝撃的だったのは、源頼朝と足利尊氏の肖像画の解釈です。

日本史の教科書に必ず出てくるあの源頼朝像ですが、現在の教科書には、「伝源頼朝像」と書かれています。なぜ「伝」がついたかというと、最近の調査や解釈により、あの源頼朝像は別人の肖像画である可能性が出てきたということなのです。

私の中学校時代、当時歴史を教えていたT先生は、「源頼朝は、弟の義経や身内の人をたくさん倒しています。この源頼朝の肖像画を見ても、なんか冷たい感じがするでしょ?」と話していました。35年以上経った今でも、はっきりと憶えています。T先生は良い先生で、T先生のお陰で私は歴史に興味を持ったといっても良いくらいです。

が、あの肖像画が源頼朝ではない可能性があるとは・・・・。
ショックです・・・・。


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さらにショックなのは、足利尊氏の肖像画。
なんと、今ではただの「騎馬武者像」という名前で教えられているのです。足利尊氏である可能性が、かなり低いということなんでしょう。

歴史というのは、研究すれば研究するほど新しい解釈が出てきます。
う〜ん、歴史って怖いなあ・・・・。


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2012.04.28

日本史のお勉強11「最澄と空海」

学生の頃、最澄と空海を混同せずに憶えるのがたいへんでした。

最澄-伝教大師-比叡山-延暦寺-天台宗。
空海-弘法大師-高野山-金剛峯寺-真言宗。

どこかでひとつ間違えるんですよねえ。
おとなになって歴史に興味を持ち、また実際に延暦寺や金剛峯寺を拝観したせいもあり、今はもう間違えることはなくなりました。昔憶えたことを忘れることはよくあることですが、昔憶えられなかったことをトシとともに憶えていくということは、多少なりとも成長しているということなんでしょうか?

さて、最澄と空海。
ものすごい人たちなのですが、現代ではなぜか空海のほうが圧倒的にカリスマ的な人気があります。なぜなんでしょうかね。
実は私も、本とかいろいろなものに影響されて、最澄よりも空海に対する知識のほうが圧倒的に多いです。

空海がクローズアップされるのは、無名の空海がいきなり遣唐使に任命されたあたりからでしょう。
空海と最澄が乗った船以外が遭難してしまったというのも、すごいエピソード。

で、空海は密教を極めるために唐に渡ったわけですが、いきなり密教を学ぶのではなく、インドの僧にサンスクリット語を学んだというのも偉いところ。密教はもともとサンスクリット語が原語なんですね。聖書を理解するために、原語のヘブライ語から勉強を始めるようなものです。

そして、密教を恵果和尚から学ぶわけですが、たった数ヶ月で一番弟子となり、密教の全てを伝授してしまうのです。密教は完全相伝なので、空海だけが密教の本質を受け継ぐことになったのです。

そして、このすべての作業を2年で終えて日本に帰国し、それから彼の活躍が始まるのです。

う〜ん、すごい人だったんだなあ。
才能的にも、根性的にも。

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2012.04.26

日本史のお勉強10「教科書の悪いところ」

「もういちど読む山川日本史」という日本史の教科書を読んでいます。
基本的に大人向けの教科書で、今の教科書が昔の教科書とどう違うのかがよくわかる構成になっています。とても楽しく読んでいます。

が、今の教科書も昔の教科書も、共通してよろしくないところがあります。
それは、「Aが作ったBのことをCと呼ぶ。」とか「AがBを倒した戦いをCの乱という。」的な短絡的な表現が多いことです。こういう表現が続くと、読んでいてつまらなくなります。

また、こういう表記だと、その事件や制度がどういう背景で何を目的としてその結果どうなったかが、イマイチ伝わりにくいです。憶えるほうも、ひたすら単語を憶えることになります。暗記型の人間になってしまいます。

その時代の政治的経済背景、どのような動きがあったか、その結果どうなったか、そういうことがもう少しわかりやすいような表記にしてほしいです。

まあ、教科書の限られたページで丁寧に表記するのは難しいんでしょうがね・・・・。

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2012.04.18

日本史のお勉強09「争いごとの呼び方」

以前から気づいていたのですが、歴史上の争いごとにはいろいろな呼び方があります。
戦争、戦、乱、変、事変、役・・・・。
この記事を書く前にいろいろと調べてみたのですが、調べても調べても納得できる答は出てきませんでした。

まず、戦争。
「国家に準じる団体同士が兵器を用いて戦うこと」というのが、おおまかな定義のようです。
が、南北戦争や西南戦争や戊辰戦争など、内乱のようなものも指すようです。そのへんが、あまり明確ではないようです。

事変。
これは、宣戦布告をしない戦争のことで、明治以降に定義された言葉のようです。が、なぜ宣戦布告の有り無しを分けて定義する必要があるのか、わかりません。

戦。
これは、局地的な戦いを示すようです。桶狭間の戦とか。

役。
主に対外的な戦いというのが定義のようです。例えば、弘安の役。
が、国内であっても、辺境の地で戦うことを役と呼ぶ場合もあるようです。前九年の役とか。
役というのは、当時からある表現なので、奥州で起こった戦いを役と呼んでいるということは、当時の解釈では奥州は日本では無いという事だったのかもしれません。

乱。
朝廷や幕府など、権力に対して反乱を起こすこと。

変。
政治的なクーデターのことかな。

織田信長が倒された本能寺の変は、政治的なクーデターという定義なんですかね。事実上の支配者が倒されたのだから、本能寺の乱と言っても良いような気がします。
乱と変、このへんの切り分けは難しいですね。

いずれにせよ、このような争いごとの定義は、教科書では習わなかったような気がします。意味もわからずに憶えるのは、たいへんなことです。こういった意味をきちんと教えることが、学力の向上につながるのではないかな?

それとも、あまり意味のないことなのかな?
無理に定義しなくても、「◯◯が××を倒した。」とか「A国とB国が武力を用いて戦った。」とか説明すれば済むだけなのかもしれません・・・・。

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2012.04.17

日本史のお勉強08「日本誕生!」

大昔、日本は中国から「倭」と呼ばれていました。
倭は、「わ」とか「やまと」とか発音するのですが、私は「わ」と憶えていました。

なぜ倭と呼ばれていたかはいろいろな説があるのですが、どの説が正しいかははっきりしないようです。
その説のひとつに、中国が日本を格下に見て、蔑称として倭と呼んでいたという説があります。教科書にも、そう書いてありました。

中国から蔑称として倭と呼ばれて、日本人も最初は自分たちの国を倭と呼んでいたようです。
が、誰かが蔑称だということに気づいたんでしょうね。
それで、自分たちのことを、倭ではなく大倭(やまと)とか大和(やまと)とか書くようになったのではないかな?

それでも、なんかしっくりこなかったのでしょう。
648年に、日本の使者が、中国に対して、「我々の国は倭と呼ばれているけど、その呼び方はイヤなんで、これからは日本と呼ぶようにしてね。」と宣言したそうです。

日本人がプライドを持って自分たちの国を日本と決めた瞬間、これがホントの意味での日本誕生!という気がします。

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